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2012年11月08日ブログアーカイブ

なぜ静岡はお茶の街になったのか

茶箱 蘭字

静岡市中心部の北西よりに「茶町」という町があります。この付近は江戸の頃からその名の通り製茶問屋の街として栄えてきました。そして明治の終わり頃に大発展の時を迎えます。そのきっかけは1899年、清水港が国際貿易港として開港したことでした。  清水港はその背後に静岡県という大産地を持ち、そのお茶が集まる静岡市にも近く、茶貿易にはうってつけの港。やがて静岡市の茶町周辺には。製茶問屋によって輸出茶の再製工場が続々と建てられるようになりました。  再製とは、お茶を輸出する際に、茶葉が長期の保存にたえられるよう再度火入れして乾燥・整形したり、安定供給するために品質のランクごとにブレンドしたりすること。再製作業は清水港開港以前、主に横浜や神戸など古くからの国際貿易港周辺で行っていましたが、その役割は次第に静岡市に集中するようになりました。横浜や神戸にあった外国商社も続々と静岡市に集まり、競うように再製工場を構えたのです。  また、輸出用の茶袋、茶箱、茶缶などをつくる茶関連業者や、製茶機械のメーカーなども茶貿易とともに発展していきます。さらには茶園開拓も日本平周辺で進みました。こうして静岡市はいちだんとお茶の街の色彩を濃くしていきました。  いいお茶が集まるところには製茶問屋が集まる。製茶問屋が多く集まるところにはさらにたくさんのお茶が集まる。そうした良い循環が、静岡市をお茶の街に仕立ててきました。そして、県内のみならず全国のお茶が集まる一大集散地として、ゆるぎない地位を築くに至ったのです。その結果、「静岡茶」は国際ブランドとして認められるようになりました。  清水港を舞台に花開いた茶貿易は、ロシアやアメリカなどにもルートを拡げましたが、戦後になって日本経済が豊かになるにつれ、次第に国内消費に移り変わっていきました。その間、茶業者が業界をあげてお茶の品質向上に取組んできたことも、「お茶はやっぱり静岡」といわれるほどになった一因です。今も静岡市には、お茶の街としての伝統と誇りが生きているのです。

 

江戸時代に下ると、静岡のお茶に関する確実な古文書が増えてきます。江戸のはじめ頃には安倍川流域で確かにお茶がつくられていたことを示す記録も残っています。その記録とは、徳川家康公が大御所として駿府城に在城していた頃、安倍川奥地から駿府城に御用茶をおさめたというもの。当時のお茶生産の主流を占めていた宇治にも匹敵する良質産地として認められたからに違いありません。安倍川流域のお茶づくりはそのような経緯から少しずつ名を知られるようになり、やがてこの地にもいよいよ「煎茶」が登場してきます。 江戸時代の初め、徳川家康が駿府城にいた頃は、お茶会が政治の場として大きな意味を持っていました。その際、家康やそのまわりの人々は、地元産の抹茶も使っていたようです。安倍郡(安倍川流域)の奥、井川では抹茶のもとになる碾茶が作られました。このお茶は高価な茶壺に詰め、標高千メートルを超える大日峠のお茶壷屋敷で夏を越し、秋になってから駿府に運びました。この時の運搬の様子を想像してイベント化したのが、毎年新茶の季節に行われるお茶壷道中です。家康の死後、駿府の政治的な役割がすっかり衰えて抹茶の需要がなくなるとともに、宇治が独占的に生産するようになって、せっかくの抹茶製造技術は絶えてしまいました。  なお、足久保では1681年から江戸の将軍家に対するお茶の上納が始まります。ここには専用の製茶小屋が3つも設けられ、かなりの量の高級煎茶がつくられていましたが、八代将軍吉宗の時の1716年に中止になります。すると製茶技術も一気に衰えました。なぜなら特製のお茶は庶民には手が出ない上に、飲み慣れないものだったからです。  当時の庶民が好んだのは、ごくごく簡単な製法の日干し茶か、釜炒り茶だったのではないかと考えられます。釜炒り茶というのは、九州では今でも作られていますが、生葉をいきなり熱した大鍋に入れて炒ってから、ムシロの上で揉み、そのまま乾燥させるものです。現代中国ではこの方法が一般的であり、静岡に代表されるような、蒸して揉む日本独特の煎茶は、茶の世界からみると大変特殊な製法なのです。  では、いつ頃から蒸し製煎茶が普及したのでしょうか。  京都に永谷宗円という人が出ました。彼は、蒸して揉まずに乾燥させる抹茶の技術と、釜で炒ってからムシロの上で揉む番茶の技術を合体させ、生葉を蒸して焙炉の上で両手を使って丁寧に揉んで仕上げる、青製と呼ばれる製茶技術を完成させました。1738年のことです。このお茶の評判は江戸の問屋を通じてたちまち全国に広まり、やがて静岡県でも宇治から指導者を招いて技術導入に努めることになります。  永谷宗円におくれること50年、駿府のある商人が足久保の高級煎茶の製法が絶えてしまったのを惜しみ、古老から話を聞いたり自分で工夫したりして、すばらしいお茶をつくることに成功しました。当時、世間では抹茶を使用する従来の茶道に対して、もっと気軽に雰囲気を楽しみたいという煎茶道が盛んになっていました。抹茶は、粉をとくため濃い色になりますが、抹茶は、清く透きとおった色をしています。煎茶を愛した文化人にとって、「清」「青」は自らの生きかたにもつながるキーワードであり、新しい煎茶の製法はみごとにそれに応えたのです。ここに煎茶は有力な支持者を得、商品として大きく発展する機会をつかみました。  こうして江戸の問屋を軸に新しい煎茶の製法が次第に広まり始めた頃、日本が長い鎖国の夢から覚め外国貿易が始まります。そして生糸に次いでお茶が輸出の花形になりました。茶は一気に日本の戦略商品に躍り出したのです。

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