お茶ティーバッグ通販のぐり茶の杉山

深蒸し茶製法のぐり茶専門店

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ぐり茶誕生の歴史ぐり茶の形のイメージ

 

ぐり茶は大正生まれ

 ぐり茶の誕生の歴史は他の日本茶と比べると近代のお茶です。
ソヴィエト連邦(現ロシア)へ輸出を進めるため、現地の嗜好に合わせた製茶技術の開発が行われたのが始まりです。
※当時のソヴィエト連邦では、中国から輸入されている釜炒り製法の玉緑茶(現地ではガンパウダーと呼ばれている)が人気でした。

玉緑茶の歴史と「ぐり茶の杉山」の歩み

輸出茶から生まれた、日本のまろやか茶「ぐり茶」

ぐり茶は、茶葉がくるんと丸まった独特の形と、まろやかな味わいが特徴の日本茶です。
そのルーツは大正末期〜昭和初期、日本茶輸出全盛期にまでさかのぼります。
 

1. 輸出茶として生まれた玉緑茶(1920年代〜)

玉緑茶(蒸し製玉緑茶)の誕生は、大正末期の国際情勢と日本茶業界の課題が交錯した結果でした。
しかし、輸出先のロシア領中央アジアでは、中国製の釜炒り茶が主流であり、日本茶の拡販には「現地の嗜好に合う形状・風味の茶」を開発する必要がありました。現地調査の結果、「十分に揉捻し、よく巻き込まれた緑茶が望ましい」という要望が伝えられ、中国からも釜炒り茶のサンプルが取り寄せられます。
当時の静岡では、明治期の不正茶・粗悪茶(柳の葉やヒジキ混入、乾燥不良など)の問題を解決するため、1893(明治26)年に釜炒り茶の製造を禁止していました。そのため、既に九州で生産されていた釜炒り茶をそのまま輸出することはできず、**「釜炒り茶の外観を持ちながら、蒸し製で仕上げる新しい茶」**が必要でした。
こうして静岡の茶業者たちは、中国製釜炒り茶を模倣しつつ、日本の蒸し製法で仕上げる「ぐり茶(蒸し製玉緑茶)」を考案します。精揉機を使わずに形を整えることで、茶葉は勾玉状(ぐりぐりとした形)になり、渋みが少なくまろやかな味わいを持つ特徴的な緑茶が誕生しました。
この新製品は、瞬く間にロシア市場に受け入れられ、やがて北アフリカ、中東、北米など、従来は中国産緑茶が消費されていた地域へ販路を広げていくことになります。
このように、玉緑茶は単なる製法の工夫ではなく、

  • 国際貿易の変化

  • 日本国内の製茶規制

  • 現地市場の嗜好

といった複数の条件が重なって生まれた、日本茶史の中でも特異な存在です。
 

2. 国内市場への転換(1960年代〜)

戦後、日本の玉緑茶は再び輸出の黄金期を迎えます。
1950年代前半には北アフリカ向けの玉緑茶が輸出額の首位を占め、1952年度には日本茶輸出量が約1万トンに達し、そのうちの約3分の2を玉緑茶が占めました。モロッコのカサブランカには日本茶輸出組合の直営店まで設けられ、モロッコ・アルジェリア・リビアなどの市場を中心に、ガンパウダー型やチュンミー型といった形状別グレードで出荷されていました。
しかし、1960年代に入ると情勢は変化します。

  • 日本経済の高度成長による国内需要の増加

  • 輸出先諸国の嗜好変化と現地生産の拡大

  • 国際市場での価格競争激化

この時期を境に、玉緑茶の生産拠点にも大きな変化が起こります。
特に1960年代後半からは、深蒸し製法の導入が広がります。深蒸しは通常より長く蒸すことで茶葉を柔らかくし、粉が多く出る代わりに水色が濃く、渋みが抑えられたまろやかな味を生み出します。これは国内市場、とくに静岡や関東圏の消費者に好まれ、玉緑茶の国内化を加速させました。
こうして、かつては海外市場を主戦場としていた玉緑茶は、1960年代を境に「国内向けブランド茶」へと変貌し、その後の伊豆や九州での地域ブランド化、そして観光土産としての発展へと繋がっていくのです。
 

3. 「ぐり茶の杉山」の創業(昭和35年/1960年)

昭和35年、伊豆・伊東市で杉山製茶工場を創業。
当時、伊東温泉は全国有数の観光地で、各地から多くの旅行客が訪れていました。
杉山は、他の静岡茶との差別化を図るため、輸出由来の「ぐり茶」をメインブランドとして採用。
蒸し製玉緑茶の持つ、渋みを抑えたまろやかな味わいと丸みのある茶葉の形状を前面に打ち出し、観光土産として一躍人気を集めます。

ぐり茶の形

日本緑茶の輸出のはじまり

日本茶輸出は明治維新頃から

茶の輸出の歴史はNHKの大河ドラマ、竜馬伝「坂本竜馬」に登場する大浦慶(おおうら けい 1828~1884)から始まりだと聞いています。
この大浦慶は日本茶を初めて世界に輸出した人物です。
その後日本茶はイギリスやアラビアにも輸出されるようになり、慶は若干30代にして日本茶貿易商として莫大な富みを得ました。
そして明治維新後、輸出商社も増えさらに日本茶の輸出量が増えます。

日本茶輸出の衰退

お茶を注ぐ

新たな市場開拓へ

しかし第一次世界大戦前後から米国市場にインド・セイロン紅茶が安く入ってきたことや、日本茶には木茎が多いというような品質低下が重なって次第に評判が落ちてきました。
そんな時、緑茶にはビタミンCが大量に含まれているという研究結果が三浦政太郎によって発表されました。1924年(大正13年)のことである。
いざ、市場奪回へと茶業関係者は意気込んだけれど、米国政府が行った追認試験で疑問が出されて、すっかり意気消沈してしまった。
これは実験に使用した素材に問題があったともいいます。
そこであらたな市場開拓への模索が始まります。

日本茶のビタミンCを売りに

寒い国ではビタミンCを摂取することが重要

1930年ころ、ソ連は国民にとって必須の茶(ビタミンCを摂取するため)を輸入するために日本に接触してきた。
そのころのソ連における日本茶は、中国茶(釜炒り製玉緑茶)に混ぜて利用されていたらしい。
いっそのことソ連が好む中国茶タイプを日本でも生産したらどうか、ということでソ連側担当者のアドバイスを受けながら、まさにソ連の嗜好にあわせた製茶技術の開発が行われました。

ぐり茶の誕生

釜炒り製から蒸し製へ

釜炒りであった中国茶と外観がよく似ていて、しかも苦味がなどを減少させる為に、従来の茶よりも蒸し時間を長くし、釜炒り茶のように見える丸い形に仕上がるようにしました。
それに合わせて茶業組合中央会議所が名称を募集した結果「玉緑茶」という名前が誕生しました。
蒸し製玉緑茶の誕生です。
名称の佳作には勾玉茶、丸茶、日之丸茶、富士茶、などがあったといいます。
そして1950年代の北アフリカ向け輸出の為に、中国の釜炒り製玉緑茶(ガンパウダー)に対抗して、ヨンコン茶を静岡や三重で製造して静岡市内の輸出商社が北アフリカ(モロッコ)へ輸出しました。
北アフリカ(モロッコ)は砂漠でビタミンCの補充が出来なかったので、短期的だったが日本茶が北アフリカ(モロッコ)に輸出されていました。

 

「ぐり茶」という言葉の誕生

「蒸し製玉緑茶」では言いにくい

1960年代前後、蒸し製玉緑茶の輸出が縮小するにつれ茶業界が国内で売り出そうとした時期に伊豆の弊社が取り扱ったのがはじまりです。
伊豆・伊東は温泉地として関東圏を中心に多くの観光客が訪れています。
そのお客様に「蒸し製玉緑茶」は言いずらい。
形がぐりっとしているから「ぐり茶」と呼び販売したのがこの名の誕生といわれています。
 
“Guricha or Guri-tea” is named from its shape similar to “guri” which represents the pattern of elaborately-coated red lacquer ware, or the whirlpool-like arabesque design. The official name of the product is steamed rounded green tea.